近刊検索 デルタ

2024年5月31日発売

啓文社書房

出版社名ヨミ:ケイブンシャショボウ

絶望の果ての戦後論 文学から読み解く日本精神のゆくえ

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内容紹介
文芸誌には絶対に載らない、ド直球の文学論!
太宰治、三島由紀夫、大江健三郎、村上春樹、村上龍、高橋源一郎、島田雅彦……。
あらゆる価値感情を蒸発させてきた戦後日本人の精神史を代表的文学作品、文学批評から読み解く。多極化する世界で、アメリカに甘えてきた日本人は自立できるのか。
日本人の真価を問う


「もしも今の日本人が皆、どうしようもない隷属状況に日本が置かれていることを、過不足なく、冷静に認識、把握しているのなら、こんな文学はゴミ箱に捨てればいい」/藤井聡
目次
第一章 「平和」への戸惑い  太宰治「トカトントン」/大岡昇平「生きている俘虜」

なぜ、今、「対米従属文学論」なのか
「トカトントン」と、戦後日本
思想と実生活
文学と社会科学
極限状態から「生きている俘虜」へ
「俘虜収容所」としての戦後日本
戦後的ニヒリズムの乗り越え方
「八月十五日」との対峙


第二章 「戦後的日常」への頽落──「第三の新人」をめぐって  
小島信夫『アメリカン・スクール』/安岡章太郎「ガラスの靴」

「第三の新人」と小島信夫
戦後日本人の三つの類型
「自由」ではない日本人
〈二者関係=閉域空間〉からの脱出
戦後文学と「リアリズムの罠」
アメリカ的自由への憧れと不安
「空白」としての戦後空間
「パブリック」なものの欠如
「べき論」を語らないという欺瞞
「軟文学」を超えて


第三章 「戦後的日常」の拒絶 三島由紀夫『真夏の死』/『憂国』

三島由紀夫を貫く二つのモチーフ
「戦後的日常」と「死」
戦前と戦後をどう繋ぐのか ──八月十五日で「待つ」ということ
三島由紀夫の「リアリズム」
『真夏の死』の「比喩」 ──戦後日本の〈国民/国家〉
再び、八月十五日で「待つ」ということ
「戦後」へのアンチテーゼ 
三島由紀夫の「大義」が向かう先
理想の「夫婦」のかたち
三島由紀夫の〈絵空事=ロマンティシズム〉
三島文学の「世界性」と「普遍性」
三島由紀夫と「保守思想」 ──天皇と国語について
三島由紀夫の大東亜代理戦争 ──つづく「近代の超克」の思想戦


第四章 戦後的ニヒリズムへの「監禁」  大江健三郎「後退的青年研究所」/「セヴンティーン」

大江健三郎のイメージ・ギャップ
アメリカに飼われる日本 ──「後退青年」の憂鬱
「出口なし」における実存的不安
「完全に負ける」ということ ──六〇年安保の意味
天皇と憲法 ──大江健三郎の漂流
敗北の敗北のまた敗北 ──戦後的ニヒリズムの完成
大江健三郎=藤井聡説? ──「中二病」の普遍性
思わず「右翼」のなかに入り込む大江健三郎
大江健三郎の「頭でっかち」なところ
俯瞰と身体の回路の不在 ──どんづまり感
「プライベート」から外に出られないということ
戦後知識人と大江健三郎

第五章 戦後的ニヒリズムの臨界値  開高健『輝ける闇』/村上龍『限りなく透明に近いブルー』

開高健の「転機」 ──ベトナムと『輝ける闇』
ベトナムの分かり難さと、「傍観者」のあやふやさ
「戦後空間」への抵抗のヌルさ ──「大学生」としての開高健?
「生の実感」を求めて ──ベトナムとアウトドア
大東亜代理戦争としてのベトナム戦争 ──戦後日本人の国際感覚の欠如
「小説」のヌルさと「批評」の覚悟 ──無意識と意識とのトレードオフ  
高度成長後の「ブルー」
「戦争小説」としての『限りなく透明に近いブルー』 ──青春の破壊願望
「ポストモダン的虛構」の拒絶 ──村上龍のエネルギー
高度成長後の『悪の華』 ──善/悪が逆転した時代の「戦い方」
一九七二年という転換点 ──「ニヒリズム」の臨界値
「破壊願望」は「保守思想」に接続できるのか ──「成熟」への問い

第六章 高度成長後の風景  村上春樹『風の歌を聴け』/田中康夫『なんとなく、クリスタル』

「透明」に向かう八〇年代文学
村上春樹という「逃げ場所」 ──初恋の「気分」について
村上春樹と「伝達」の問題 ──都市生活者の自意識について
「破壊願望」からの解放 ──〈諦め〉の受け入れ方
「葛藤」を回避する文学 ──「近代」が終わった後の世界
「相対主義」とは違う「無常」 ──ポストモダン的「冷笑」ではなく
「一人」であることの自覚 ──村上春樹の「一匹と九十九匹」
「ニヒリズム」との付き合い方 ──「無常」を表現するという「希望」
『なんとなく、クリスタル』は文学なのか? ──全否定に次ぐ全否定
「従属」ではなく「所属」 ──八〇年代の日米関係
消費する若者たち ──「なんとなく、ネオリベ」の世代
小説の終わりと、ポスト・モダン批評 ──高橋源一郎のヒドさ
『俘虜記』から『なんとなく、クリスタル』へ ──戦後三十年の断絶

第七章 「国土の荒廃」を読む  石牟礼道子『苦海浄土─わが水俣病』/富岡多恵子『波うつ土地』

戦後日本における「母の崩壊」というモチーフ
近代資本主義という名の「受苦」 ──「鎮魂」としての文学
「業」としての文学 ──「水俣」を記憶する言葉
「魂」の実在を記録するということ ──「死者の民主主義」について
共同体の分裂と国家への情念 ──加害/被害を超えたものの手応え
「民衆の生き方」 ──資本主義化=世俗化する世界への抵抗
「文学」の使命 ──「国民的受苦」を引き受けること
「現代の男ども」に対する女の「復讐」
「女」に気が遣えない「日本の男」
八〇年代消費文化とニュータウンの風景
波うつ「大地」を安定させること、治めること ──築土工木の思想
「土建屋の男」が象徴するもの ──ナショナリズムの回路


第八章 「ポスト・モダン」の頽落を超えて  高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』/島田雅彦『優しいサヨクのための喜遊曲』

「近代文学の終わり」と「ポストモダニズム」
『さようなら、ギャングたち』が書かれた時代
「政治と文学」という主題の終わり
これは「追い詰められた結果」なのか、単なる「言葉遊び」なのか
「テクスト」だけで立っていない『さようなら、ギャングたち』
幼児退行する文学 ──「政治」という「地」を失った文学
ポストモダンの「左旋回」 ──「虛構」に逃げ込んでいく「サヨク」
凡庸すぎて、付き合っていられない「青春日記」
八〇年代サヨクの「虛構性」 ──生活と何の関係もない運動
「ポストモダン」か「オウム」か、という二者択一のグロテスク
「子宮回帰願望」から「オタク」へ ──「反出生主義」のメンタリティ
果たして「文学」は再生するのか? ──「ポスト・モダン」を超えて
「自由」な文学論に向けて
著者略歴
浜崎 洋介(ハマサキ ヨウスケ hamasaki yousuke)
78年埼玉生まれ。日本大学芸術学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了、博士(学術)。文芸批評家、京都大学大学院特定准教授。 著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉 イロニー・演戯・言葉』『反戦後論』『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』『小林秀雄の「人生」論』。共著に『西部邁最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」』など。 編著に福田恆存アンソロジー三部作『保守とは何か』『国家とは何か』『人間とは何か』。近著に『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社)。
タイトルヨミ
カナ:ゼツボウノハテノセンゴロン ブンガクカラヨミトクニホンセイシンノユクエ
ローマ字:zetsubounohatenosengoron bungakukarayomitokunihonseishinnoyukue

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